初代政宗像について
㍼5年⇒宮城県連合青年団顧問の社会教育主事・長門頼三氏が[若人の魂に新しい愛郷の血潮を燃え立たせる教材]として藩祖政宗の銅像を建立を計画。
当時、満州事件(㍼6)・三陸大津波(㍼8)・東北大冷害(㍼9)等があったにも関わらず、青年団の資金調達予算42,500円に対し浄財46,053円が集まった。
㍼8年⇒伊達政宗(1567-1636)300回忌の記念事業として原型を宮城県柴田町出身の彫刻家・小室達(とおる)氏に依頼。
是を名誉とした小室氏は帝展出品を中止。アトリエ改築など銅像制作準備を全力で開始する。
[馬学]という研究書を読みつつ渡辺豊蔵氏や横田獣医官らの指導を受け、政宗と仙台藩の歴史を昼夜問わず調べ学んだ。
鋳造は東京都日暮里の伊藤和助氏に依頼。
東北帝大金属材料研究所の田丸完爾博士に合金割合等の指導を受ける。
完成した像は日暮里から奥州街道を小室も同乗したトラクターで5日かけて仙台へ運び、騒ぎにならぬ様にと夜の市内を行進。所が青年団らが藩祖の到着を道々大歓迎。
通れない所は電線を取払う、老朽化した大橋を恐る恐る渡り、大手門は予め地面を掘り下げて尚ギリギリだったが何とか通過して仙台に受け入れた。
㍼10年)1935/5/23⇒政宗公300年祭の行事として盛大に除幕式が行われる。一世一代の仕事を成し得た小室氏は式典で挨拶の機会を与えられなかったという。
その夜、小室氏は精養軒で友人に挨拶披露をしたというエピソードがある。
㍼19年)1/22⇒太平洋戦争の金属回収令により政宗騎馬像(銅像)は青葉城址より姿を消す事となる。出陣式が行われ、万歳三唱のもと騎馬像は礎石から外され出征した。
小室氏・長門氏・伊藤氏らも臨席。彼らの無念は計り知れない。
その後、青葉城址にセメント製の平服政宗立像が立つ事になる。
終戦後・㍼20年11月⇒宮城県勤労課の石川謙吾氏(元南小泉小学校校長)が、軍需から転換した工場が使用する鉄材を探していた時の事。塩釜の東北ドッグ敷地内集積所から政宗騎馬像を発見した。バラバラだが各部とも揃っていた。
石川謙吾氏は銅像の復帰を願い、懇願して回るも戦後での混乱もあり、以前は寄付金や協力等をしてくれた建立関係者も応じる事が出来無かった。
㍼21年6月⇒石川氏は集積所から[騎馬像処分]の報せを受ける。駆け付けてみると既に上半身部分しかない。しかし残った上半身だけは丁寧に保管されていた様子。やはり様々な想いか藩祖の顔は熔かす事が出来なかったのだろう。
石川氏は仲介人を立てて上半身だけの銅像を屑鉄として1,700円で購入。
青年団団長の横山吉平氏(柏木の横山醤油店)など有志が是を青葉神社に担ぎ上げた。
㍼36年10月⇒開館した仙台博物館に青葉神社から寄贈されている。
◆気が向けば追記するかも知れません。政宗像にはどれだけの想いが込められているか、連載していくつもりです。
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